
玄関あけたら5分で遭難。
それはジョーダンやけど、
これマジうちのまん前の景色。
なにもかも重い鉛色にドーンと沈んで、
冷たい雪が音もなく終わりなく降ってきて、
無慈悲な寒風に舞い狂う、
鬱屈として寂寞な、
玄関先のいつもの冬。

ハイテク肌着を重ね着して、
玄関先でぶ厚いネオプレーンのウェーダーを履き、
そのしたにモコモコのダウンを押し込んで、
家籠り仕事の気分転換がてら、
うちから歩いてすぐそこの川辺を散策。
ちょっと、
ついでに竿もって……、
そしてこのあと痛恨のミス。
このすこし上流対岸の開けた河原まで行って、
…ちょっとやってみよかな…
とかおもったのが運のつき。
調子にのってザバザバ川を渡って……しまったのだった。
ちなみに、
ネオプレーンのウェーダーはフェルト底。
わかってくれはる?
対岸に渡って上陸して気がついて、
「あ…しまった」
つもったばかりでフワフワのかき氷のように軽く乾いた雪が、
塊になって濡れたフェルトにくっつきよんねん。
雪が靴底でギュッと圧縮されて、
たちまちカチカチの氷の塊になって、
歩けば歩くほどにガチガチにかたまって足裏に折り重なってくっつく。
歩きだしたら2秒で高下駄。
も~ムチャクチャイライラしぬほどエンドレスで歩きづらい。
ほどなく、
ケセランパサランを彷彿する大粒の乾いた雪が、
勢いを増してあとからあとから降ってきた。
どんどん、
みるみる雪がつもっていく。
うまっていく、
ってかんじ。
きっと、
ワタシが雪原を踏みしめながらここまで歩いてきた轍も、
もはやとうに雪の下に埋もれていることでしょう。
風も吹いてきた。
強風にあおられて横なぐりに降りそそぐ雪がビタビタ顔に当たり、
顔をあげて歩くことができなくなった。
竿ひと振りもせず、
引き返す。
玄関開けて30分くらいでホンマにプチ遭難。
ものすごく気楽にちょっとそこまでお散歩、
みたいな気分で出かけたけれど、
こけつまろびつ全身雪まみれ、
ドッと疲れてほうほうのていで帰宅した。
と、
そんな情け容赦ない寒気が通り過ぎてくれると……、
こんなステキな日だってたくさんある当地の冬。

玄関開けたら目のまえ絶景。
なんてこともない、
道北地方のどこにでもあるような冬景色。
しかし、
ここらへんの冬の晴天は格別ですね。
鮮烈な真っ青と真っ白。
どこもかしこも美しい。
右を向いても左を向いても、
360度どこを眺めても絵になる冬の景色。
そのかわり、
お外はすっかり冷蔵庫……よりも低いんだって。
ハンパなく寒いで。
完全武装のうえ、
ゴム底の長靴を履いて、
ブラッとでかけてみました。

膝くらいまでつもっているけれど、
ほとんど重さを感じないサラッサラの雪を、
軽快にバッサバッサ蹴散らしてあそびながら、
河原につづくまっすぐな農道を歩いて河畔林を抜け、
土手の斜面をくだってハアハアと河原にでてみれば……、
そこはもう別世界。
サクサクと雪をかき分け河原を歩いていくと、
むこうの河原からとつぜん巨大なオジロワシが飛びたって、
真っ青な空に悠然と舞いあがっていくのはいつものこと。
ここらへん一帯を根城にしておられる、
近所の王様。
運がいいと、
雪の塊のように真っ白な冬毛の野ウサギが、
おどろくほど力強く強靭な脚力で、
このフワフワの雪原を跳ぶように駆けていくのが見れたり、
厚い氷の張った川のうえを、
キタキツネがウロウロしながら横切っていくのが見れたりする。
華麗に着こなしたかんじの冬毛が、
フッサフサにふくらんでいる冬のキタキツネ。
小麦色に輝く見事な冬毛を全身でフワッフワなびき揺らしながら歩いている様子は、
そりゃ~もうセレブちっく。
晴天の真冬の河原は、
なかなか多彩でにぎやか。
玄関開けたら7~8分くらいでマジ野生の王国。
すばらしい。
そんなわけで、
例年ならこの季節は、
タイイング道具抱えて都会に行ったり来たりとか、
そのための準備とか、
いろいろ充実しながらも日々気忙しく、
そして多くの同行諸氏の皆さんとお会いして、
ワイワイ過ごすのが恒例のことでした。
もうひとつ、
正月くらいは関西の実家に帰省するのも年に一度のだいじな行事。
けれど、
毎日のニュースを横目に、
「よりにもよって北海道と大阪を往復するて、なんぼなんでもこの時期ちょっとはばかられるで」
と家族の意見衆議一決。
今年は久々に我が家で「大晦日だよ年またぎタイイング・マラソン」するわ。
というのはさておき、
ほんとうに難儀で深刻な時代。
みなさま、
くれぐれもご自愛ください。

そしてつくづくおもうのは、
どんどんマイブームは移り変われど、
そのとき、
「自分にとってものすごく刺激的で魅力的なテーマや課題」
を抱えていると、
日々の暮らしのなかで、
活力や気力の原動力になるというか日々の糧になるというか、
この酷寒の氷点下の毎日、
朝の寝起きのテキパキ度があきらかにちゃう。
「よっしゃ、きょうもアレ試してコレ巻いたろ」
とおもえばこそ、
夢見心地でぬくぬくの布団をガバッと押しのけて、
厳しい現実と凍てついた外気のなかに飛び出していけるというもの。
ほんとにささやかなことではあるんだけど、
いま現在、
この世情のなかで、
そういう糧があってよかったなあ、
と、
ほんとにありがたい。

フックはTMC2488SP-BL 8番。
ボディとウイングはエゾリスのお腹の純白のファー。
そしてヘッドは真っ赤なオストリッチと金色のビーズヘッド。
レッドヘッドな小型アトラクター系エゾリス・ストリーマー作例。
ありったけシンプル。
こんなちっちゃなストリーマー軍団で釣る道具は、
ナナハン5番のいつもの愛竿と、
そして6番ショートなシューティングヘッド各タイプ。
ライトウエイトなシューティングヘッドものすご軽快で気持ちいい。
気も早く来シーズンを見据えて、
ワタシいま、
こんなんに凝ってます。
と、
そんなストリーマー・ブームのキッカケは、
もちろんエゾリスの毛。
フライのジャンルを問わず、
巻けば巻くほど、
使えば使うほど、
そして、
わかってくればくるほどにおもしろいエゾリスの毛。
まあなんちゅうても、
コンプリートスキンまるごとイッピキあることだし、
頭から背中からお腹からお尻から、
全身バッサバッサいいだけ毛をむしり倒していると……、
アッと気づけばたちまち全身ハゲだらけ。
すべての部位の毛をあますところなく、
それぞれすごく有益につかえるところがまた興味が尽きずドハマる要因のひとつ。
夢中でリスむしってムシとジャコ巻いてる師走です。
大阪の老舗釣具店のひとつ、
フイッシングサロン心斎橋が長い歴史にひと区切りをつけられ、
数年前に店舗を閉店されたことは、
すこしまえに大阪在住の事情通な方々から聞いていて、
じみじみ、
つくづく感慨深かった。
父親に連れられて、
このお店にはじめてはいったのは、
自分がまだ小学六年生のころ。
じつに40数年まえのこと。
そのころはまだお店は心斎橋の「そごう」だっけ?
「大丸」だっけ?
百貨店のなかに店舗があった。
ほどなく、
のちにアメリカ村としてサブカルチャーなヤングが集う街に変貌する、
心斎橋の周防町の一角にあった三階建ての商用ビルに移転されたのだった。
一階がブラックバス専門、
二階はスプーンやスピナーなど全般、
そして三階がフライ専門店。
品ぞろえはすさまじかった。
どの階にも、
子供にはとうてい手の届かない高嶺の花な釣り道具が所狭しと並んでいた。
それらを飽きもせず切なく眺めながら、
……大人になったらぜったいこうたるわい……
と、
いつもおもっていた。
あのころ、
フイッシングサロン心斎橋の店内は、
おなじような志を抱いたガキどもでいつもいっぱいだった。
こう書いていておもったが、
フイッシングサロン心斎橋の接客はけして愛想よしというわけではなかったけれど、
このような「見るだけ~」というガキどもを邪険にもせず、
ほったらかしにしてくれて、
いくらでも見せてくれた。
半日ほども狭い店内をウロウロして、
いつもの憧れの品々を眺めてから、
さんざん悩んで購入するのはダビング材ひと袋、
もしくは、
ワームのバラ売りで選びに選んで二本、
がやっと、
という子供たちをいいだけほったらかしてくれた。
子供だからといって甘やかされず、
かといって邪魔にもされず……。
おかげで、
たくさんのホンモノをありったけ見て、
そして自由にのびのびウブな感性に焼きつけることができた。
それがどれだけありがたかったことか。
と、
40数年後に気がついた。
その当時、
フライ道具らしきものをヒト揃え持ってはいたけれど、
初体験の相手は、
近所の沼や川にたくさんいたブルーギルやオイカワ。
もっぱら、
トップウォータープラグやワームで、
ブラックバスやライギョを釣りながら、
いつかは、
いつかはじぶんも、
じぶんで作ったフライでマスが釣ってみたい……、
と、
とおい憧れの渓流魚へのお慕いの灯を小さな胸にともしつづけた少年のころであった。
自他共におおいに認める、
むしろ聞かれてもいないのに自分から誰かれなく吹聴してまわりたい、
関西の都会の夢見るイチビリ釣りキチ少年なのでした。
あのころ、
フイッシングサロン心斎橋は、
まさに夢の園であり殿堂だった。
先月、
ふと思いたってフイッシングサロン心斎橋を検索してみた……、
すると、
あの当時のこんな懐かしい広告画像が掲載されていて、
すこし時間が逆転した。

フイッシングサロン心斎橋のFBより転載。
この広告写真は胸がキュンとイタいねん。
学校指定のものだろうか、
上下お揃いの体育ジャージに野球帽をかぶった少年がたまらなくイトしいねん。
ポケットのなかには、
この日のために節約に節約を重ねて捻出したおこずかいを忍ばせている。
そして、
購入するルアーを入れる買い物カゴがわりのザルを握りしめて、
壁一面にディスプレイされたルアーに圧倒されながら、
限られた予算できょうはどれを購入するか……、
まさに一世一代の真剣勝負の表情でルアーを見つめている少年。
…この子は、
あのころの自分とちゃうか?…
というよりも、
我が同年代の当時の関西の釣りキチの子たち、
いまこの写真を見たら、
「この子、あのころの自分とちゃうん?」胸がチクリといたいオッサン、
いっぱいおるやろなとおもったらチョイ泣けてきた。


フイッシングサロン心斎橋のFBより転載。
両方とも、
もちろんもっとった。
…この会員証はバスを愛するもののみに渡されます…
あのころ、
メンバー入会手続きをして、
この会員証をうけとって、
~のみに渡されます…という文面を読んだときの特別感…どこかウレシ気恥かしい気になったの…かすかな記憶にある。
そして、
会員証に記載されたもうひとつのお約束ごと。
…何ごとにも正直で、良い人であって下さい…
このお店は、
あのころの釣りキチ少年たちにとって、
いろんな意味で学びの場でもあった。
フェイスブックによると、
この会員証のデザインもイラストも文章もすべて、
フイッシングサロン心斎橋の社長さん自らが考案してデザインされたものなのだそう。
そんなことも、
40数年後にはじめて知った。
ほかにも、
もはや脳裏からは消えていた、
淡く懐かしく、
そして遠い記憶を呼び覚ます、
当時の店内写真がフェイスブックのページにいくつか掲載されていた。
甘酸っぱくほろ苦い蜜に浸りながら、
それらの写真をずっと眺めて一日が暮れた。
店舗は閉店してしまったし、
フライ用品は現在は取り扱っていないけれど、
バスルアーに関しては、
オリジナル商品も盛りだくさん。
オンライン通販にて活発に御商売されておられるご様子。
すばらしいなとおもった。
そんな通販サイトも興味深く見て回っていたところ、
このページをスクロールして……フイッシングサロン心斎橋オンラインショップothers……ここでしばしタイムカプセルを開けた心境。
いてもたってもいられないような、
なんともいえない気持ちになった。
ふたつの商品が、
長い長い時と時間を超えて、
じぶんを待っていてくれた。
と、
そんなふうに勘違いしたいものが並んでいた。
購入ボタンを押した。

サンポーの特大ライトタフボックス。
このお店で、
さいしょにこのボックスを購入したときのことは、
いまでも鮮明に憶えている。
実家のある関西の中学を卒業して、
新潟にあった寮制の高校に進学する直前に購入した。
そのときが、
じぶんにとってこのお店で買い物をする最後になったからだ。
ついにこのオレ様もイワナやヤマメがいる渓流が身近にある新潟で暮らすことになるんだぞと、
どんなもんじゃと……、
フライも巻きまくって、
このボックスを自作のフライでいっぱいにしてやるぞと、
意気揚々と買い求めたのだった。
いまもなお現役バリバリ。
というよりも、
なにかとかさばる巨大ドライフライを収納するボックスとして、
オホーツク地方在住の現在こそ、
この特大ボックスが活用されている。

80年代初頭のあの時代、
こんな茶色のクイルボディ・パラシュートと、
ハックルを巻けるだけ巻いたウルフがドライフライの花形でもあり、
流行の最先端だった。
そんなのをせっせせっせと巻いて、
このボックスが埋まっていくのをウキウキ眺めた。
40数年経って、
二個目のこのボックスをおなじ店で購入した。
そしてもうひとつ、

オンライン・サイトによると、
なんでも約40年前にアメリカのバスプロショップから仕入れたネクタイとの由。
まったく記憶から消えうせてはいたけれど、
サイトの商品画像を見たとたん、
ウワーッと狂おしいほどに甦ったあのころの思い出。
このネクタイ、
あの当時いつも店内で見ていた微かな憶えがある。
眩しいような、
憧れなような、
未知の未来を象徴するような……不思議な気持ちで。
……こんなにもオシャレなネクタイをつけるオトナって、どんなオトナなんやろ?……、
……じぶんは、どんなオトナになるんやろ?……、
こんなオトナになっちゃってほんとにまったくもう。
そして、
……こんなネクタイを購入するオトナは、いったいぜんたいどのような人物なんだろう?……、
あのころ、
それが興味津々だった。
まさか、
40数年も経って、
じぶんがこのネクタイを購入するなんて。
くしくも、
少年のころの素朴な疑問と興味のひとつがいま、
解明された。
手元に商品が届いて、
ネクタイのはいったビニールを開けて、
おもわず鼻を近づけてみた。
あのころの、
牧歌の時代の匂いがした、
ような気がした。
時代は巡る。
因果も巡る。
これからもまだまだ巡る。
どんどん巡る。
フイッシングサロン心斎橋が長い歴史にひと区切りをつけられ、
数年前に店舗を閉店されたことは、
すこしまえに大阪在住の事情通な方々から聞いていて、
じみじみ、
つくづく感慨深かった。
父親に連れられて、
このお店にはじめてはいったのは、
自分がまだ小学六年生のころ。
じつに40数年まえのこと。
そのころはまだお店は心斎橋の「そごう」だっけ?
「大丸」だっけ?
百貨店のなかに店舗があった。
ほどなく、
のちにアメリカ村としてサブカルチャーなヤングが集う街に変貌する、
心斎橋の周防町の一角にあった三階建ての商用ビルに移転されたのだった。
一階がブラックバス専門、
二階はスプーンやスピナーなど全般、
そして三階がフライ専門店。
品ぞろえはすさまじかった。
どの階にも、
子供にはとうてい手の届かない高嶺の花な釣り道具が所狭しと並んでいた。
それらを飽きもせず切なく眺めながら、
……大人になったらぜったいこうたるわい……
と、
いつもおもっていた。
あのころ、
フイッシングサロン心斎橋の店内は、
おなじような志を抱いたガキどもでいつもいっぱいだった。
こう書いていておもったが、
フイッシングサロン心斎橋の接客はけして愛想よしというわけではなかったけれど、
このような「見るだけ~」というガキどもを邪険にもせず、
ほったらかしにしてくれて、
いくらでも見せてくれた。
半日ほども狭い店内をウロウロして、
いつもの憧れの品々を眺めてから、
さんざん悩んで購入するのはダビング材ひと袋、
もしくは、
ワームのバラ売りで選びに選んで二本、
がやっと、
という子供たちをいいだけほったらかしてくれた。
子供だからといって甘やかされず、
かといって邪魔にもされず……。
おかげで、
たくさんのホンモノをありったけ見て、
そして自由にのびのびウブな感性に焼きつけることができた。
それがどれだけありがたかったことか。
と、
40数年後に気がついた。
その当時、
フライ道具らしきものをヒト揃え持ってはいたけれど、
初体験の相手は、
近所の沼や川にたくさんいたブルーギルやオイカワ。
もっぱら、
トップウォータープラグやワームで、
ブラックバスやライギョを釣りながら、
いつかは、
いつかはじぶんも、
じぶんで作ったフライでマスが釣ってみたい……、
と、
とおい憧れの渓流魚へのお慕いの灯を小さな胸にともしつづけた少年のころであった。
自他共におおいに認める、
むしろ聞かれてもいないのに自分から誰かれなく吹聴してまわりたい、
関西の都会の夢見るイチビリ釣りキチ少年なのでした。
あのころ、
フイッシングサロン心斎橋は、
まさに夢の園であり殿堂だった。
先月、
ふと思いたってフイッシングサロン心斎橋を検索してみた……、
すると、
あの当時のこんな懐かしい広告画像が掲載されていて、
すこし時間が逆転した。

フイッシングサロン心斎橋のFBより転載。
この広告写真は胸がキュンとイタいねん。
学校指定のものだろうか、
上下お揃いの体育ジャージに野球帽をかぶった少年がたまらなくイトしいねん。
ポケットのなかには、
この日のために節約に節約を重ねて捻出したおこずかいを忍ばせている。
そして、
購入するルアーを入れる買い物カゴがわりのザルを握りしめて、
壁一面にディスプレイされたルアーに圧倒されながら、
限られた予算できょうはどれを購入するか……、
まさに一世一代の真剣勝負の表情でルアーを見つめている少年。
…この子は、
あのころの自分とちゃうか?…
というよりも、
我が同年代の当時の関西の釣りキチの子たち、
いまこの写真を見たら、
「この子、あのころの自分とちゃうん?」胸がチクリといたいオッサン、
いっぱいおるやろなとおもったらチョイ泣けてきた。


フイッシングサロン心斎橋のFBより転載。
両方とも、
もちろんもっとった。
…この会員証はバスを愛するもののみに渡されます…
あのころ、
メンバー入会手続きをして、
この会員証をうけとって、
~のみに渡されます…という文面を読んだときの特別感…どこかウレシ気恥かしい気になったの…かすかな記憶にある。
そして、
会員証に記載されたもうひとつのお約束ごと。
…何ごとにも正直で、良い人であって下さい…
このお店は、
あのころの釣りキチ少年たちにとって、
いろんな意味で学びの場でもあった。
フェイスブックによると、
この会員証のデザインもイラストも文章もすべて、
フイッシングサロン心斎橋の社長さん自らが考案してデザインされたものなのだそう。
そんなことも、
40数年後にはじめて知った。
ほかにも、
もはや脳裏からは消えていた、
淡く懐かしく、
そして遠い記憶を呼び覚ます、
当時の店内写真がフェイスブックのページにいくつか掲載されていた。
甘酸っぱくほろ苦い蜜に浸りながら、
それらの写真をずっと眺めて一日が暮れた。
店舗は閉店してしまったし、
フライ用品は現在は取り扱っていないけれど、
バスルアーに関しては、
オリジナル商品も盛りだくさん。
オンライン通販にて活発に御商売されておられるご様子。
すばらしいなとおもった。
そんな通販サイトも興味深く見て回っていたところ、
このページをスクロールして……フイッシングサロン心斎橋オンラインショップothers……ここでしばしタイムカプセルを開けた心境。
いてもたってもいられないような、
なんともいえない気持ちになった。
ふたつの商品が、
長い長い時と時間を超えて、
じぶんを待っていてくれた。
と、
そんなふうに勘違いしたいものが並んでいた。
購入ボタンを押した。

サンポーの特大ライトタフボックス。
このお店で、
さいしょにこのボックスを購入したときのことは、
いまでも鮮明に憶えている。
実家のある関西の中学を卒業して、
新潟にあった寮制の高校に進学する直前に購入した。
そのときが、
じぶんにとってこのお店で買い物をする最後になったからだ。
ついにこのオレ様もイワナやヤマメがいる渓流が身近にある新潟で暮らすことになるんだぞと、
どんなもんじゃと……、
フライも巻きまくって、
このボックスを自作のフライでいっぱいにしてやるぞと、
意気揚々と買い求めたのだった。
いまもなお現役バリバリ。
というよりも、
なにかとかさばる巨大ドライフライを収納するボックスとして、
オホーツク地方在住の現在こそ、
この特大ボックスが活用されている。

80年代初頭のあの時代、
こんな茶色のクイルボディ・パラシュートと、
ハックルを巻けるだけ巻いたウルフがドライフライの花形でもあり、
流行の最先端だった。
そんなのをせっせせっせと巻いて、
このボックスが埋まっていくのをウキウキ眺めた。
40数年経って、
二個目のこのボックスをおなじ店で購入した。
そしてもうひとつ、

オンライン・サイトによると、
なんでも約40年前にアメリカのバスプロショップから仕入れたネクタイとの由。
まったく記憶から消えうせてはいたけれど、
サイトの商品画像を見たとたん、
ウワーッと狂おしいほどに甦ったあのころの思い出。
このネクタイ、
あの当時いつも店内で見ていた微かな憶えがある。
眩しいような、
憧れなような、
未知の未来を象徴するような……不思議な気持ちで。
……こんなにもオシャレなネクタイをつけるオトナって、どんなオトナなんやろ?……、
……じぶんは、どんなオトナになるんやろ?……、
こんなオトナになっちゃってほんとにまったくもう。
そして、
……こんなネクタイを購入するオトナは、いったいぜんたいどのような人物なんだろう?……、
あのころ、
それが興味津々だった。
まさか、
40数年も経って、
じぶんがこのネクタイを購入するなんて。
くしくも、
少年のころの素朴な疑問と興味のひとつがいま、
解明された。
手元に商品が届いて、
ネクタイのはいったビニールを開けて、
おもわず鼻を近づけてみた。
あのころの、
牧歌の時代の匂いがした、
ような気がした。
時代は巡る。
因果も巡る。
これからもまだまだ巡る。
どんどん巡る。
アイザック・ウォルトンかく語りき。
「良心を失った人間が、価値あるものを残すことはない」

この羽根は、
静岡で暮らしていたころ広島まででかけていって購入した。
もうかれこれ15年以上もまえのこと。
そのとき、
原爆資料館を見学する機会を得た。
広島でお世話になった友人の奥さまが同行してくれた。
すべての展示を見終えて、
奥さまにお付き合いいただいたことをつくづく感謝した。
独りだったら重過ぎてとても受け止めきれそうにない。
資料館の出口につづく長い通路を歩いていると、
ベンチのところに黒人の父子が座っていた。
ふたりとも視線を宙に泳がせて定まらず放心のてい。
まるで魂が抜けてしまったようだ。
その様子は、
かれらが剥き出しの感受性でこの展示を見学して、
そしてどれほどのショックを受けたのかを、
全身で表現しているようだった。
そんな父子ふたりの悲壮な表情を、
いまなお鮮烈に思い出せる。

昨年の11月、
大阪で開催されたイベントにて。
あのとき、
原爆資料館見学につきあってくれた奥さまが大阪観光のついでにイベント会場に寄ってくださった。
久々の再会をよろこびながら、
昼ご飯をご一緒した。
いちばん話したかったこと、
…あの黒人の父子の姿をいまもおりに触れて思い出します…、
という話をすると、
奥さまもよく憶えておられて、
…けっきょくさあ、あのとき戦争の悲惨さを我々にもっともつよく印象づけてくれたのは、なによりもあの父子だったよね…
懐かしい話に花を咲かせた。
広島の原爆資料館はぜったいに見ておくべきだ、
と、
まだ20代だったころのぼくに教えてくれたのは、
生まれも育ちもジャマイカであらせられるフレディ・マクレガー。
日本ツアーのおり、
広島公演のあと立ち寄って大きな衝撃を受けたのだそうだ。
そして、
その余韻が醒めやらぬとき、
音楽雑誌の記事のために、
ワタシが彼にインタビューさせていただける機会を与えてもらった。
そのさい、
そんな話も聞かせてもらったのだった。
だから、
よけいに見ておきたかった。

ここオホーツク地方の片田舎では、
きょうもきょうとて、
ジャマイカの黒人が創った音楽をズンズン響かせながら、
イギリスの白人が発明したサカナ釣りの道具を、
骨の髄からニッポン人のワタシがせっせとこしらえている。
そしてそのふたつがなければ、
もはやじぶんは生きている意味がない。
逆にいえば、
ワタシはレゲエとフライフイッシングのおかげで生かされている。
だからこそ、
ここ数日のアチラのお国での出来事が悲しい。
暗澹たる気持ちになる。
世界は、
もっと思慮深いものではなかったのか?

今夜はギョーザつくった。
具にアイヌネギの醤油漬けをガツンと効かせたやつ……。
なので、
タレはつけないでこのままいただきます。

赤毛の巨大な春ヒグマの頭部。
コレ、
見れば見るほどにすごいよ。
ナイフをいれるのがためらわれるオーラなんだけど覚悟を決めて……、
スイマセン、
もうちょいまっててくださいね。

キンキンの金毛も、
すっばらしいの、
我が家に届いてます。
世を憂いているヒマなんかないんだけど……、
きょうは朝起きて、
珈琲淹れて飲んで、
釣りにも行かずフライ巻いて、
裏庭の素人畑の草むしりして、
フライ巻いてたら、
正午を知らせる集落のサイレンが鳴って、
キャベツ山盛りの塩焼きそば目玉焼き添えつくって食って、
フライ巻いて、
夕方散歩がてら近所の川の様子見に行って、
フライ巻いて、
風呂はいって、
ギョーザ包んで焼いて食って、
フライ巻いて、
それからブログ書いて、
書き終わったら、
床がビリビリ震えるような重低音でコレ聴いて、

そしてこのビデオを観たら、
布団のなかでこの本のページめくりながら、
きょうはやすみます。
アンニュイなロンリー気分の深夜、
ゲーリー・ラフォンテーンは効くぜ。
「良心を失った人間が、価値あるものを残すことはない」

この羽根は、
静岡で暮らしていたころ広島まででかけていって購入した。
もうかれこれ15年以上もまえのこと。
そのとき、
原爆資料館を見学する機会を得た。
広島でお世話になった友人の奥さまが同行してくれた。
すべての展示を見終えて、
奥さまにお付き合いいただいたことをつくづく感謝した。
独りだったら重過ぎてとても受け止めきれそうにない。
資料館の出口につづく長い通路を歩いていると、
ベンチのところに黒人の父子が座っていた。
ふたりとも視線を宙に泳がせて定まらず放心のてい。
まるで魂が抜けてしまったようだ。
その様子は、
かれらが剥き出しの感受性でこの展示を見学して、
そしてどれほどのショックを受けたのかを、
全身で表現しているようだった。
そんな父子ふたりの悲壮な表情を、
いまなお鮮烈に思い出せる。

昨年の11月、
大阪で開催されたイベントにて。
あのとき、
原爆資料館見学につきあってくれた奥さまが大阪観光のついでにイベント会場に寄ってくださった。
久々の再会をよろこびながら、
昼ご飯をご一緒した。
いちばん話したかったこと、
…あの黒人の父子の姿をいまもおりに触れて思い出します…、
という話をすると、
奥さまもよく憶えておられて、
…けっきょくさあ、あのとき戦争の悲惨さを我々にもっともつよく印象づけてくれたのは、なによりもあの父子だったよね…
懐かしい話に花を咲かせた。
広島の原爆資料館はぜったいに見ておくべきだ、
と、
まだ20代だったころのぼくに教えてくれたのは、
生まれも育ちもジャマイカであらせられるフレディ・マクレガー。
日本ツアーのおり、
広島公演のあと立ち寄って大きな衝撃を受けたのだそうだ。
そして、
その余韻が醒めやらぬとき、
音楽雑誌の記事のために、
ワタシが彼にインタビューさせていただける機会を与えてもらった。
そのさい、
そんな話も聞かせてもらったのだった。
だから、
よけいに見ておきたかった。

ここオホーツク地方の片田舎では、
きょうもきょうとて、
ジャマイカの黒人が創った音楽をズンズン響かせながら、
イギリスの白人が発明したサカナ釣りの道具を、
骨の髄からニッポン人のワタシがせっせとこしらえている。
そしてそのふたつがなければ、
もはやじぶんは生きている意味がない。
逆にいえば、
ワタシはレゲエとフライフイッシングのおかげで生かされている。
だからこそ、
ここ数日のアチラのお国での出来事が悲しい。
暗澹たる気持ちになる。
世界は、
もっと思慮深いものではなかったのか?

今夜はギョーザつくった。
具にアイヌネギの醤油漬けをガツンと効かせたやつ……。
なので、
タレはつけないでこのままいただきます。

赤毛の巨大な春ヒグマの頭部。
コレ、
見れば見るほどにすごいよ。
ナイフをいれるのがためらわれるオーラなんだけど覚悟を決めて……、
スイマセン、
もうちょいまっててくださいね。

キンキンの金毛も、
すっばらしいの、
我が家に届いてます。
世を憂いているヒマなんかないんだけど……、
きょうは朝起きて、
珈琲淹れて飲んで、
釣りにも行かずフライ巻いて、
裏庭の素人畑の草むしりして、
フライ巻いてたら、
正午を知らせる集落のサイレンが鳴って、
キャベツ山盛りの塩焼きそば目玉焼き添えつくって食って、
フライ巻いて、
夕方散歩がてら近所の川の様子見に行って、
フライ巻いて、
風呂はいって、
ギョーザ包んで焼いて食って、
フライ巻いて、
それからブログ書いて、
書き終わったら、
床がビリビリ震えるような重低音でコレ聴いて、

そしてこのビデオを観たら、
布団のなかでこの本のページめくりながら、
きょうはやすみます。
アンニュイなロンリー気分の深夜、
ゲーリー・ラフォンテーンは効くぜ。
先月の19日から先週まで、
仕事半分、
所用半分で、
東京と大阪のあっちこっちにずっと出かけておりました。
長い長い出張でした。

知る人ぞ知るフライタイイング用ハサミ made by 水谷理美容鋏製作所。
かれこれ4年ほどまえに送っていただいた水谷さん製作のハサミを、
ずっと愛用している。
というか、
つねに手元に置いて、
もうず~~っと酷使につぐ酷使をかさねていた。
それだけでなく、
タイイングデモや車中泊釣行などでもいつも持ち歩いていた。
いろんなところに一緒にでかけていた。
先月のつるや釣具店恒例のハンドクラフト展にて、
そんなワタシのハサミを水谷さんご本人に再見していただく機会を得た。
もはやボロボロギザギザに削れくたびれているのに、
なお働かされている気の毒なハサミの刃先を仔細観察しながら、
水谷さんしばし絶句…、
みたいな面持ち。
嗚呼ココロがイタイ。
…あの、
「テメー、ハサミなめんじゃね~よ!」
と怒鳴りつけてください。
思う存分罵倒してくださって構いませんよ…、
と、
苦しまぎれに開き直った。
やや沈黙のあと、
水谷さんはおっしゃった。
「ものすごいつかってくださってるのがよくわかります」
ジェントルなお言葉ありがたく身に沁みました。
そして、
「……これ、いったん預からせていただいて研ぎ直させてください」
と申し出てくださった。
うれしい。
先週、
我が家に帰宅すると、
そのタイミングを待っていたかのように、
キレイに研ぎ直されたハサミが届いた。
ご丁寧なお手紙も添えていただいて、
長旅の疲れがどんなにかほぐれた。
まるで新品のようにピカピカになったワタシのハサミ。
眩しいぞ。
こんどこそ、
細心の注意を払って、
慎重に、
大切に、
腫れものに触れるかのように、
大事につかおうと、
気分一新でおもった。
けれど、
最初の一本を巻き終えるころには、
ピッカピカなんだけど、
もはや手に指に馴染みつくしている、
いつものあの感覚がたちまちよみがえって……、
だって…道具なんだもの。

ハンドクラフト展がおわった翌日すぐ、
関西の実家に帰省した。
「夕御飯のあとで寅やの羊羹たべる?東京の友人がお土産にって持たせてくれてん」
「うわ~いいね~。どうせならお抹茶たてていただこうよ、シャカシャカして」
と母がいった。
けれど、
その翌日の午後、
じぶんが珈琲を淹れて、
ふたりでBSチャンネルでやっていた古い邦画を観ながら羊羹をいただいた。
おいしかった。
その映画の核となるシーンのなかで、
主人公と心優しいおばあさんが、
とある山里の大きな古民家を舞台にして、
おだやかに物語が進んでいく場面が何度もあった。
じぶんは、
その古民家が気になって気になってしかたなかった。
なぜかというと、
緑濃く生い茂る夏の場面も、
白い雪が降りしきる冬の場面も、
その古民家の窓や襖は、
どうしてだかいつもすべて開け放たれていたのだ。
なので、
四季折々の野外の風景が、
部屋のなかの登場人物の背後でいつも見えている演出になっていた。
情感にあふれた映画のストーリー自体はとってもよかった。
場面のなかで移りゆく季節を幻想的に表現することは、
物語をさらに味わい深く印象づけるものとして、
重要な役目をになっているのであろうことは理解できる。
しかしだ、
夏のシーンでは、
「あんなに窓全開にしてたら、大中小のいろんな虫が侵入し放題やで。田舎なめてたら、おそろしいことになるで」
冬のシーンになると、
「あんなに窓開けっ放しにして、部屋のなか雪でベチャベチャになるやん。雪国なめてたら、えらいことになるで」
いちいちツッコミをいれていると、
「あんた、つくづくオホーツクのヒトになってんなあ」
と、
母がしみじみいった。



今年のハンドクラフト展にて、
タイイングデモといおうか、
実演販売といおうか、
当日販売していたいくつかのマテリアルをつかって、
このように巻くといいですよとか、
こんなのが巻けますよとか、
アレコレ実演タイイングをしたあと、
そのマテリアルをご購入くださろうとする数人のお客さんが、
お会計の順番をまってくださっていたとき、
テンパりながら必死のパッチでお会計伝票をつけていると、
唐突に、
「うわ~キレイ」
と可愛い声がした。
顔をあげると、
幼稚園かな?
それとも小学校低学年?
お会計の順番待ちをしてくださっていたお父様に連れられたチビッコお譲ちゃんが、
我がブースに陳列していた、
セイランの羽根を主役に巻いた特大フライを並べた額装の、
ガラス面を指先で撫でていた。
「えっ、ほんと!ありがとう!うれしいな~。ソレ、おじちゃんが作ったんだよ」
というと、
お譲ちゃんはサッと手をひっこめて、
めいっぱいはにかむと、
モジモジしながらお父様のうしろに隠れちゃった。
無駄な予備知識も、
余計な知恵も、
固定観念も、
既成概念も、
な~んにもない、
まっさらで正直な白紙の感性に響いてくれるなんて……おじちゃん無上の喜び。
だって、
それをこそ目指したいんだもの。

はばたけセイラン火の鳥グレートアーガス・フェザント。
仕事半分、
所用半分で、
東京と大阪のあっちこっちにずっと出かけておりました。
長い長い出張でした。

知る人ぞ知るフライタイイング用ハサミ made by 水谷理美容鋏製作所。
かれこれ4年ほどまえに送っていただいた水谷さん製作のハサミを、
ずっと愛用している。
というか、
つねに手元に置いて、
もうず~~っと酷使につぐ酷使をかさねていた。
それだけでなく、
タイイングデモや車中泊釣行などでもいつも持ち歩いていた。
いろんなところに一緒にでかけていた。
先月のつるや釣具店恒例のハンドクラフト展にて、
そんなワタシのハサミを水谷さんご本人に再見していただく機会を得た。
もはやボロボロギザギザに削れくたびれているのに、
なお働かされている気の毒なハサミの刃先を仔細観察しながら、
水谷さんしばし絶句…、
みたいな面持ち。
嗚呼ココロがイタイ。
…あの、
「テメー、ハサミなめんじゃね~よ!」
と怒鳴りつけてください。
思う存分罵倒してくださって構いませんよ…、
と、
苦しまぎれに開き直った。
やや沈黙のあと、
水谷さんはおっしゃった。
「ものすごいつかってくださってるのがよくわかります」
ジェントルなお言葉ありがたく身に沁みました。
そして、
「……これ、いったん預からせていただいて研ぎ直させてください」
と申し出てくださった。
うれしい。
先週、
我が家に帰宅すると、
そのタイミングを待っていたかのように、
キレイに研ぎ直されたハサミが届いた。
ご丁寧なお手紙も添えていただいて、
長旅の疲れがどんなにかほぐれた。
まるで新品のようにピカピカになったワタシのハサミ。
眩しいぞ。
こんどこそ、
細心の注意を払って、
慎重に、
大切に、
腫れものに触れるかのように、
大事につかおうと、
気分一新でおもった。
けれど、
最初の一本を巻き終えるころには、
ピッカピカなんだけど、
もはや手に指に馴染みつくしている、
いつものあの感覚がたちまちよみがえって……、
だって…道具なんだもの。

ハンドクラフト展がおわった翌日すぐ、
関西の実家に帰省した。
「夕御飯のあとで寅やの羊羹たべる?東京の友人がお土産にって持たせてくれてん」
「うわ~いいね~。どうせならお抹茶たてていただこうよ、シャカシャカして」
と母がいった。
けれど、
その翌日の午後、
じぶんが珈琲を淹れて、
ふたりでBSチャンネルでやっていた古い邦画を観ながら羊羹をいただいた。
おいしかった。
その映画の核となるシーンのなかで、
主人公と心優しいおばあさんが、
とある山里の大きな古民家を舞台にして、
おだやかに物語が進んでいく場面が何度もあった。
じぶんは、
その古民家が気になって気になってしかたなかった。
なぜかというと、
緑濃く生い茂る夏の場面も、
白い雪が降りしきる冬の場面も、
その古民家の窓や襖は、
どうしてだかいつもすべて開け放たれていたのだ。
なので、
四季折々の野外の風景が、
部屋のなかの登場人物の背後でいつも見えている演出になっていた。
情感にあふれた映画のストーリー自体はとってもよかった。
場面のなかで移りゆく季節を幻想的に表現することは、
物語をさらに味わい深く印象づけるものとして、
重要な役目をになっているのであろうことは理解できる。
しかしだ、
夏のシーンでは、
「あんなに窓全開にしてたら、大中小のいろんな虫が侵入し放題やで。田舎なめてたら、おそろしいことになるで」
冬のシーンになると、
「あんなに窓開けっ放しにして、部屋のなか雪でベチャベチャになるやん。雪国なめてたら、えらいことになるで」
いちいちツッコミをいれていると、
「あんた、つくづくオホーツクのヒトになってんなあ」
と、
母がしみじみいった。



今年のハンドクラフト展にて、
タイイングデモといおうか、
実演販売といおうか、
当日販売していたいくつかのマテリアルをつかって、
このように巻くといいですよとか、
こんなのが巻けますよとか、
アレコレ実演タイイングをしたあと、
そのマテリアルをご購入くださろうとする数人のお客さんが、
お会計の順番をまってくださっていたとき、
テンパりながら必死のパッチでお会計伝票をつけていると、
唐突に、
「うわ~キレイ」
と可愛い声がした。
顔をあげると、
幼稚園かな?
それとも小学校低学年?
お会計の順番待ちをしてくださっていたお父様に連れられたチビッコお譲ちゃんが、
我がブースに陳列していた、
セイランの羽根を主役に巻いた特大フライを並べた額装の、
ガラス面を指先で撫でていた。
「えっ、ほんと!ありがとう!うれしいな~。ソレ、おじちゃんが作ったんだよ」
というと、
お譲ちゃんはサッと手をひっこめて、
めいっぱいはにかむと、
モジモジしながらお父様のうしろに隠れちゃった。
無駄な予備知識も、
余計な知恵も、
固定観念も、
既成概念も、
な~んにもない、
まっさらで正直な白紙の感性に響いてくれるなんて……おじちゃん無上の喜び。
だって、
それをこそ目指したいんだもの。

はばたけセイラン火の鳥グレートアーガス・フェザント。
今週、
急に兵庫県の川西にある実家に帰省することになった。
そしてきょう、
朝五時に川西の実家を出発。
伊丹空港から始発の羽田行きの飛行機にのり、
羽田から道北地方行きの飛行機にのりかえ、
ちょうど昼過ぎてすぐ道北のちいさな空港に到着した。
雪はさほどでもなかったけど、
数日間のあいだ空港の駐車場に停めていたクルマは凍っていた。
車体からぶっといツララがズラズラ並んでぶらさがって、
氷河に埋まったマンモスのようになって私を待っていた。
この一週間ほどまえ、
それまで不気味なほど降っていなかった雪が、
じつはどこかにガッツリ貯蓄されていて、
それが一気に放出されたかのようなヤケクソっぷりで、
いきなりとつぜん降り狂った。
朝起きたら世界は一変、
おおきな玉のような雪がすさまじい強風にあおられながら、
雪崩のように横から降りそそいで視界を消し去り、
なにもかもがたちまち真っ白に埋まっていった。
よりにもよって、
実家に帰省しようとしたその日だった。
「本日の便はすべて欠航」
もはや交通機関はなにもかも麻痺。
どうにもできない。
それよりもまず、
クルマが雪に埋まって駐車場から出せない。
というよりも、
クルマが雪に埋まってなんにも見えない。
猛吹雪のなか、
凍える両手でママさんダンプを押しながらも、
情け容赦ない雪の量に途方に暮れていると、
ほどなく、
ご近所の方が巨大なブルドーザーで来てくれて、
ガガガとエンジン音をけたててズドドと大量の雪をどけてくれた。
が、
またすぐ埋まりそうになってスコップ片手に奮闘していると、
別のご近所の方が見あげるようなブルドーザーで来てくれて、
ガガガとエンジン音をひびかせてドドドと大量の雪をどかしてくれた。
まるで、
正義の味方が助けに来てくれたような気分だった。
ほんの一瞬で純白のモンスターをやっつけてくれたヒーローです。
うれしさのあまりブルドーザーを見あげながら、
ピョンピョン飛び跳ねんばかりに感謝の意をジェスチャーにて表明。
おふたりの正義の味方は、
頭上の運転席から私を見おろしてニコッと親しげに笑いながら軽く手を挙げて、
エンジン音をガガガととどろかせてご自宅に戻られていった。
こうして自宅の駐車場で遭難した私のクルマは救助された。
そしてその二日後の朝、
ようやく空港に向かえる峠道は晴天。
一面白銀の雪景色がいっせいに輝いていた。
そして四日後のきょう、
自宅に帰る峠道は粉雪まじりの曇天。
そして厳寒。
カチカチに凍った路面を氷雪がビュービュー吹きすさぶ雪おんな日和。
携帯の電波もとどかない樹海の峠の凍結路面。
新参者はめいっぱいビビリながら運転。
ほうほうのていで帰宅してヤレヤレ。
荷物をおろして部屋のストーブの火を着けてすぐ、
もはや家族気分のご近所の方が顔を出してくれた。
急に帰省した私を気にかけていてくださったのだ。
「あがってあがって~」
というと、
「ここ、寒過ぎるからムリ」
といわれた。
「きょう、すごいさむいっすね~」
というと、
「昨日の夜なんかすごかったんだぞ。マイナス27度までいったんだから」
どうりで、
帰宅してすぐ、
とるもとりあえず二台の大型ストーブをカッカと燃やしているのに、
いっこうに温度はあがらず、
ダウンジャケットを脱いだら命にかかわりそうなわけだ。
留守中の部屋のなかも凍っていた。
ところで、
乾燥した指先を湿らせたり、
マテリアルを濡らしたりするために、
目の前にあるタイイング机のうえに、
水を入れたコップをおいているんだけど、
そこにヘアウイングサーモンフライのトッピングにつかおうとおもって、
水に浸しておいたクレストフェザーを数本、
そのままにして出かけてしまったのだが、
帰宅するとグリーンに染めたゴールデンフェザントのクレストフェザーの氷漬けが完成していた。

コールドだろ~?
でも、
じぶんにはものすごく居心地いいのさ落ち着くのさこれがまた。
寒いし、
凍るし、
埋まるけど、
ここはあたたかい。
急に兵庫県の川西にある実家に帰省することになった。
そしてきょう、
朝五時に川西の実家を出発。
伊丹空港から始発の羽田行きの飛行機にのり、
羽田から道北地方行きの飛行機にのりかえ、
ちょうど昼過ぎてすぐ道北のちいさな空港に到着した。
雪はさほどでもなかったけど、
数日間のあいだ空港の駐車場に停めていたクルマは凍っていた。
車体からぶっといツララがズラズラ並んでぶらさがって、
氷河に埋まったマンモスのようになって私を待っていた。
この一週間ほどまえ、
それまで不気味なほど降っていなかった雪が、
じつはどこかにガッツリ貯蓄されていて、
それが一気に放出されたかのようなヤケクソっぷりで、
いきなりとつぜん降り狂った。
朝起きたら世界は一変、
おおきな玉のような雪がすさまじい強風にあおられながら、
雪崩のように横から降りそそいで視界を消し去り、
なにもかもがたちまち真っ白に埋まっていった。
よりにもよって、
実家に帰省しようとしたその日だった。
「本日の便はすべて欠航」
もはや交通機関はなにもかも麻痺。
どうにもできない。
それよりもまず、
クルマが雪に埋まって駐車場から出せない。
というよりも、
クルマが雪に埋まってなんにも見えない。
猛吹雪のなか、
凍える両手でママさんダンプを押しながらも、
情け容赦ない雪の量に途方に暮れていると、
ほどなく、
ご近所の方が巨大なブルドーザーで来てくれて、
ガガガとエンジン音をけたててズドドと大量の雪をどけてくれた。
が、
またすぐ埋まりそうになってスコップ片手に奮闘していると、
別のご近所の方が見あげるようなブルドーザーで来てくれて、
ガガガとエンジン音をひびかせてドドドと大量の雪をどかしてくれた。
まるで、
正義の味方が助けに来てくれたような気分だった。
ほんの一瞬で純白のモンスターをやっつけてくれたヒーローです。
うれしさのあまりブルドーザーを見あげながら、
ピョンピョン飛び跳ねんばかりに感謝の意をジェスチャーにて表明。
おふたりの正義の味方は、
頭上の運転席から私を見おろしてニコッと親しげに笑いながら軽く手を挙げて、
エンジン音をガガガととどろかせてご自宅に戻られていった。
こうして自宅の駐車場で遭難した私のクルマは救助された。
そしてその二日後の朝、
ようやく空港に向かえる峠道は晴天。
一面白銀の雪景色がいっせいに輝いていた。
そして四日後のきょう、
自宅に帰る峠道は粉雪まじりの曇天。
そして厳寒。
カチカチに凍った路面を氷雪がビュービュー吹きすさぶ雪おんな日和。
携帯の電波もとどかない樹海の峠の凍結路面。
新参者はめいっぱいビビリながら運転。
ほうほうのていで帰宅してヤレヤレ。
荷物をおろして部屋のストーブの火を着けてすぐ、
もはや家族気分のご近所の方が顔を出してくれた。
急に帰省した私を気にかけていてくださったのだ。
「あがってあがって~」
というと、
「ここ、寒過ぎるからムリ」
といわれた。
「きょう、すごいさむいっすね~」
というと、
「昨日の夜なんかすごかったんだぞ。マイナス27度までいったんだから」
どうりで、
帰宅してすぐ、
とるもとりあえず二台の大型ストーブをカッカと燃やしているのに、
いっこうに温度はあがらず、
ダウンジャケットを脱いだら命にかかわりそうなわけだ。
留守中の部屋のなかも凍っていた。
ところで、
乾燥した指先を湿らせたり、
マテリアルを濡らしたりするために、
目の前にあるタイイング机のうえに、
水を入れたコップをおいているんだけど、
そこにヘアウイングサーモンフライのトッピングにつかおうとおもって、
水に浸しておいたクレストフェザーを数本、
そのままにして出かけてしまったのだが、
帰宅するとグリーンに染めたゴールデンフェザントのクレストフェザーの氷漬けが完成していた。

コールドだろ~?
でも、
じぶんにはものすごく居心地いいのさ落ち着くのさこれがまた。
寒いし、
凍るし、
埋まるけど、
ここはあたたかい。