4月16日早朝、4時頃だったか5時だったか、電話が鳴った。
フライフイッシャー誌の真野編集長からだった。
「朝早くからスイマセン。きっと寝てらっしゃらないだろうなとおもって」
「ごめん!原稿あと3時間、いや、2時間待って。っていうか待てる?」
「ああ~、大丈夫です。いや、大丈夫にしてみせます」
「おおきに。ほなもうちょいねばらせてもらうわ」
「よろしくお願いします。ところで、昨夜遅く九州でまた大きな地震があったのご存知ですか?」
「いや、オレ昨日からニュースもなにも観てる余裕なかったから。それホンマ?」
「はい、かなりの被害のようです。きっと原稿にかかりきりでご存知ないかとおもって、お知らせしておいた方がいいかと電話しました。筆者の皆さんご無事であればいいのですが…なにか状況わかればまたお知らせします」
サーッと血の気が引いて、膝がガクガク震えた。
五年前の悪夢がよみがえる。
かの地には、仲良くしている友人と、むかし仕事ですごくお世話になった方がいる。
なによりもふたりの無事を願う。
ひたすら願う。
とあるギャグ漫画家がインタビューで自分の仕事をさしてこう言っていた。
いわく「どんなに苦しくても、どんなに哀しいことがあっても、面白いことばかり捻り出すように考え続けないと食っていけないんです。因果な商売なんです」
予定時間を大幅に過ぎて、ようやく出来上がった原稿を編集部に送信。
なにかに八つ当たりしているかのようなトゲトゲしくもある文面に、いつものことながら送信してから後悔する。
とるもとりあえず、友人とお世話になった方にメール送信。
折り返しすぐに友人から無事を知らせる電話。
ほどなく、お世話になった方からもメールがきた。
ほんとによかったほんとによかったほんとによかったホッとした。
ぼくは、大学生時代の3年間を岩手の三陸地方ですごした。
肝心の学校での思い出は恥ずかしながらとても淡く、もはや忘却の彼方。
だが、人生でもっとも多感な時期を、三陸の豊かな自然をこれでもかと満喫したこと、
そしてなによりも、そこで暮らし働く地元の漁師さんはじめたくさんの方々に可愛がってもらった記憶は、いまもなお鮮明で、かけがえのない財産として大切に思っている。
学校を卒業する直前、そうした地元の方と自分の関わりをよく知っている教授のひとりがこういった。
「おまえほど学校に来なかったヤツはいないけど、おまえほど三陸の皆さんから学ばせてもらったヤツもいないんじゃないか」
それは教授のぼくに対するイヤミであり皮肉の言葉だった。
が、当時の自分にはこれに勝るものはない勲章の言葉だった。
そうでありながら、
またいつか、またいつかとおもいながら、月日だけが流れてしまった。何十年も。
なにもしないまま、なにもしようとしないまま、ダラダラと、無意味に、自堕落に。
なんにもなければ、もしかしたらいつかこの不義理を笑えたかもしれない。
しかし、5年前の3月11日。
安否を確認するすべもなく、祈ることしかできない自分の無力が呪わしかった。
情けないことに、その気持ちはいまも奥底でくすぶりつづけている。
もっと恥を晒そう。
まさにあの日、仙台にて、大切な方のお葬式だった。
大学を卒業して、単身東京の渋谷でレコード屋で働き始めたとき、ひとかたならぬお世話になった方だった。
怖いものなんかなにもなく、ひたすら生意気盛りで、ワガママで、そしてバカだった20代。
そんな濃厚な時代に、誰よりも親身に、誰よりもぼくを認めてくれた方だった。
書くことの喜びと醍醐味、
聴くことの無限の奥深さ、
創造することの素晴らしさ、
じぶんにとっての全ての原点となった方だった。
ところがだ、
終わり悪けりゃすべてダメダメ。
レコード屋を続けることがもはや限界になって、すべてに対して不義理のまま逃げるように飛騨高山にさっさと引っ越してしまったワタシ。
イヤになったらすぐ逃げるんだよねえ、無責任だからボク。
ところがだ、
神さまはときどき粋な計らいをしてくださる。
あれから10年くらい月日が流れて、
いきなりバッタリとつぜん再会しちゃったの。しかも、あの恥ずかしい思い出ばかりの渋谷で。
「おまえ、いまなにやってんだよ」
「いやー、かくかくしかじかで、食うや食わずっすよ」
「バッカじゃねえの」
「そうなんすよ」
と言っている加藤さんもまたバカだった。
いいとしこいて相も変わらず、レゲエ産業の中枢にいて夢ばかり追っていた。
どうしようもない。
それからまた、ゆるやかなつきあいが始まった。
そのころ加藤さんの手がけていた仕事を、ほんのすこしだけ手伝わせてもらったりとか。
でもそれは、ぼくの窮状を心配してくれた加藤さんが、
すこしでも収入をと助けてくれたこと、よーくわかってる。
だってその仕事、ぼくじゃなくてもできるもん。
ていうか、ほかにもっと適任者いるもん。
が、
「いつものようにバーンと熱い文章書いてくれよ」
と言ってくれた。
そのころから、ときどきベロンベロンに酔っ払った加藤さんが電話をかけてくれるようになった。
酔っ払いの戯れ言ほど聞き辛いものはない。
のだが、
加藤さんの戯れ言はボクを20代のアホ時代にタイムスリップさせてくれたし、
なによりもエネルギー注入してもろて、喝はいった。
「いま、ちょっと考えてることがあんだよ。おまえにも手伝ってもらいたいんだわ」
「マジすか?加藤さんがそう言ってくれるんだったら、なんでもやるけど、いまさらぼくに出来ることあんのかな?」
「あるんだなー、これがまたグハハハハハハハ。じゃ、ちゃんと決まったらすぐ知らせっから、たのむぜ」
「ガッテン承知」
「ウハハハハハハハハハハ。あ、それとさ、上京するとき必ず連絡しろよ、うちに泊まれよ」
「うん、そうする」
これが加藤さんと交わした最後の会話。
そんな話しをしたのに、それから何度も仕事で上京したのに、あえる機会なんか、
ちょっと無理すればいくらでもつくれたのに、
今現在の仕事仲間やつり仲間との付き合いがあったから、なんて言い訳にもならない。
長い闘病生活もしらず、
のんきに、
そういやこのごろ加藤さんから電話ないなあ、なんて、
気になったらなんですぐ電話せえへんのや?あのとき、なんでこちらから電話せえへんかったのや?
まさか、こんな後悔を残したまんまお別れ?って、わっけわからんやんけ。
あの日、
朝早くから準備して、
函館から仙台までの新幹線の時刻も調べて、
でも、
でかけることができなくて。
加藤さんにも、
きっと大勢駆けつけるだろう、あのころの仕事仲間、
当時迷惑をかけたり不義理をした方々。
どうにもあわせる顔がなく、
ひたすら引け目ばかりかんじて、
でもそれは自分の自意識過剰で、
それはわかってる。
わかっているんだけど、
部屋の中を無意味にうろうろして逡巡するばかりで、
もう出かけないと夜までに仙台に着けないって時間が迫り、
どうするんだ自分、
なにやってんだオレは、
行くんだ行くんだ、ウジウジしてるばあいとちゃうやんけ、
というとき、
函館もまた揺れに揺れたのだった。
もし、予定通りに出発していたら、ぼくはどうなっていたんだろう。
あれからもう5年。
忘れてません。
風化なんかしてません。
でも、
なんにも出来ない自分をどうかゆるしてください。
気にかけることしかできなくて、すいません。
もう15年くらいまえかなあ、
フライフイッシング・フェスタとかやってたころ、
その会場で、
さる著名な方に言われちゃったんだよ、大勢の公衆の面前で。
「ビゼンさんの記事はさあ、いつも楽しい楽しいばかりで、世の中楽しいばかりじゃないのにねえ」
その方がいきなり何故そんなことを言ったのか、その真意はわからない。
わからないけど、イヤなかんじだった。
でさあ、そのとき固く誓ったのは、
そんな言い方されるんやったら、逆にもうずーっとお気楽に、楽しくって楽しくってしかたありません、
って、その姿勢をつらぬきつづけたるわい。
あのなあ、アナタに言われるまでもなく、こちとら世の中の哀しみ不条理、もういやっちゅうほど身にしみてるのや。
それをひとときでも忘れて、
癒やしを求めてすがっているのがフライフイッシングやで。
健全な現実逃避やで。
そんな場で、なんでわざわざ現実を思い出すような話しせなアカンのや?
オレは野暮なことがキライなんじゃ。
と、
肩肘張ってまいりましたが、
あのとき、30代のボクにそんな辛辣を言ったあの方の年齢は、
ちょうど今のぼくの歳だった。
その歳になってみて、
なぜあのとき30代のぼくに、
当時50歳のあの方があんなことを言ったのか、わかる気がする。なんとなく。
なにかを書くことも、
なにかを話すことも、
苦労だと思ったことはなかった。
勝手に口が動いて、それをひたすら垂れ流していればよかった。
そんな感覚だった。
内容は棚上げして、まずは自分がたのしんでいた。
のに、
いつのころからか、
書くことも話すこともパワーがいるようになった。
ときとして苦痛だ。
でも書きたいし話したいんだよねえ、へんなの……。
大人になっちゃったんだねえ。
むかし、キダタローがテレビで言っていた。
「プロになる前は、私の才能は枯れることなく湧き出る泉だと信じて疑わなかった。
ですが、プロになると、その泉だとおもっていたものは泥水のたまったただの水溜まりだったと気がついた。
だから、その水溜まりから絞り出すように作曲するしかないんですよ。
だけど、そこからほんとうに道が切り開かれていくのだと、私は思います」
桂小枝ちゃんの話によると、キダタロー先生は、お休みのまえに「寝酒」ならぬ「寝パン」するんだって。
寝る前にパン召し上がるそうだ。
その情報、どうでもいい?
ぼくはクッソワロタ。
子供の頃から、キダタローてほんまに性格悪そうやなーと思いながら、
難しい話をなんてカンタンに、しかもオモシロく話しはるんやろかとおもって、
この人がテレビにでてると熱心に観た。
オレも性格の悪さでは負けてへんから、
センセのお言葉信じて、いまはもがいてあがくお年頃なんやとおもって、
ジタバタしようとおもいます。
ところで、
いつもこのブログは自宅パソコンで書くねんけど、
いまパソコン修理中。
なので、はじめてタブレットを駆使して、したためてみました。
モノグサの極み乙女としては大進歩なのです。
ちっともやろうとしないワタシを見捨てることなく、
忍耐強くケツをたたいてくれたサイトウさん、
ご指導ご協力くださったユリさん、
あらためて感謝です。今後ともよろしくね。
それから、
メールしたけど返事がなくて、
という方がおられましたらご心配おかけしてスイマセン。
パソコンがなおりしだい、返信しますので、いましばらくまっていてください。
いつもながらご迷惑おかけします。
そして、
フライ注文したけど、どうなってるのや、とご心配おかけしている皆様。
もうひたすらほんっとにお気を悪くさせて申し訳ありません。
お詫びの言葉もなく、とにかくがんばります。
なにとぞ、よろしくお願いいたします。
フライフイッシャー誌の真野編集長からだった。
「朝早くからスイマセン。きっと寝てらっしゃらないだろうなとおもって」
「ごめん!原稿あと3時間、いや、2時間待って。っていうか待てる?」
「ああ~、大丈夫です。いや、大丈夫にしてみせます」
「おおきに。ほなもうちょいねばらせてもらうわ」
「よろしくお願いします。ところで、昨夜遅く九州でまた大きな地震があったのご存知ですか?」
「いや、オレ昨日からニュースもなにも観てる余裕なかったから。それホンマ?」
「はい、かなりの被害のようです。きっと原稿にかかりきりでご存知ないかとおもって、お知らせしておいた方がいいかと電話しました。筆者の皆さんご無事であればいいのですが…なにか状況わかればまたお知らせします」
サーッと血の気が引いて、膝がガクガク震えた。
五年前の悪夢がよみがえる。
かの地には、仲良くしている友人と、むかし仕事ですごくお世話になった方がいる。
なによりもふたりの無事を願う。
ひたすら願う。
とあるギャグ漫画家がインタビューで自分の仕事をさしてこう言っていた。
いわく「どんなに苦しくても、どんなに哀しいことがあっても、面白いことばかり捻り出すように考え続けないと食っていけないんです。因果な商売なんです」
予定時間を大幅に過ぎて、ようやく出来上がった原稿を編集部に送信。
なにかに八つ当たりしているかのようなトゲトゲしくもある文面に、いつものことながら送信してから後悔する。
とるもとりあえず、友人とお世話になった方にメール送信。
折り返しすぐに友人から無事を知らせる電話。
ほどなく、お世話になった方からもメールがきた。
ほんとによかったほんとによかったほんとによかったホッとした。
ぼくは、大学生時代の3年間を岩手の三陸地方ですごした。
肝心の学校での思い出は恥ずかしながらとても淡く、もはや忘却の彼方。
だが、人生でもっとも多感な時期を、三陸の豊かな自然をこれでもかと満喫したこと、
そしてなによりも、そこで暮らし働く地元の漁師さんはじめたくさんの方々に可愛がってもらった記憶は、いまもなお鮮明で、かけがえのない財産として大切に思っている。
学校を卒業する直前、そうした地元の方と自分の関わりをよく知っている教授のひとりがこういった。
「おまえほど学校に来なかったヤツはいないけど、おまえほど三陸の皆さんから学ばせてもらったヤツもいないんじゃないか」
それは教授のぼくに対するイヤミであり皮肉の言葉だった。
が、当時の自分にはこれに勝るものはない勲章の言葉だった。
そうでありながら、
またいつか、またいつかとおもいながら、月日だけが流れてしまった。何十年も。
なにもしないまま、なにもしようとしないまま、ダラダラと、無意味に、自堕落に。
なんにもなければ、もしかしたらいつかこの不義理を笑えたかもしれない。
しかし、5年前の3月11日。
安否を確認するすべもなく、祈ることしかできない自分の無力が呪わしかった。
情けないことに、その気持ちはいまも奥底でくすぶりつづけている。
もっと恥を晒そう。
まさにあの日、仙台にて、大切な方のお葬式だった。
大学を卒業して、単身東京の渋谷でレコード屋で働き始めたとき、ひとかたならぬお世話になった方だった。
怖いものなんかなにもなく、ひたすら生意気盛りで、ワガママで、そしてバカだった20代。
そんな濃厚な時代に、誰よりも親身に、誰よりもぼくを認めてくれた方だった。
書くことの喜びと醍醐味、
聴くことの無限の奥深さ、
創造することの素晴らしさ、
じぶんにとっての全ての原点となった方だった。
ところがだ、
終わり悪けりゃすべてダメダメ。
レコード屋を続けることがもはや限界になって、すべてに対して不義理のまま逃げるように飛騨高山にさっさと引っ越してしまったワタシ。
イヤになったらすぐ逃げるんだよねえ、無責任だからボク。
ところがだ、
神さまはときどき粋な計らいをしてくださる。
あれから10年くらい月日が流れて、
いきなりバッタリとつぜん再会しちゃったの。しかも、あの恥ずかしい思い出ばかりの渋谷で。
「おまえ、いまなにやってんだよ」
「いやー、かくかくしかじかで、食うや食わずっすよ」
「バッカじゃねえの」
「そうなんすよ」
と言っている加藤さんもまたバカだった。
いいとしこいて相も変わらず、レゲエ産業の中枢にいて夢ばかり追っていた。
どうしようもない。
それからまた、ゆるやかなつきあいが始まった。
そのころ加藤さんの手がけていた仕事を、ほんのすこしだけ手伝わせてもらったりとか。
でもそれは、ぼくの窮状を心配してくれた加藤さんが、
すこしでも収入をと助けてくれたこと、よーくわかってる。
だってその仕事、ぼくじゃなくてもできるもん。
ていうか、ほかにもっと適任者いるもん。
が、
「いつものようにバーンと熱い文章書いてくれよ」
と言ってくれた。
そのころから、ときどきベロンベロンに酔っ払った加藤さんが電話をかけてくれるようになった。
酔っ払いの戯れ言ほど聞き辛いものはない。
のだが、
加藤さんの戯れ言はボクを20代のアホ時代にタイムスリップさせてくれたし、
なによりもエネルギー注入してもろて、喝はいった。
「いま、ちょっと考えてることがあんだよ。おまえにも手伝ってもらいたいんだわ」
「マジすか?加藤さんがそう言ってくれるんだったら、なんでもやるけど、いまさらぼくに出来ることあんのかな?」
「あるんだなー、これがまたグハハハハハハハ。じゃ、ちゃんと決まったらすぐ知らせっから、たのむぜ」
「ガッテン承知」
「ウハハハハハハハハハハ。あ、それとさ、上京するとき必ず連絡しろよ、うちに泊まれよ」
「うん、そうする」
これが加藤さんと交わした最後の会話。
そんな話しをしたのに、それから何度も仕事で上京したのに、あえる機会なんか、
ちょっと無理すればいくらでもつくれたのに、
今現在の仕事仲間やつり仲間との付き合いがあったから、なんて言い訳にもならない。
長い闘病生活もしらず、
のんきに、
そういやこのごろ加藤さんから電話ないなあ、なんて、
気になったらなんですぐ電話せえへんのや?あのとき、なんでこちらから電話せえへんかったのや?
まさか、こんな後悔を残したまんまお別れ?って、わっけわからんやんけ。
あの日、
朝早くから準備して、
函館から仙台までの新幹線の時刻も調べて、
でも、
でかけることができなくて。
加藤さんにも、
きっと大勢駆けつけるだろう、あのころの仕事仲間、
当時迷惑をかけたり不義理をした方々。
どうにもあわせる顔がなく、
ひたすら引け目ばかりかんじて、
でもそれは自分の自意識過剰で、
それはわかってる。
わかっているんだけど、
部屋の中を無意味にうろうろして逡巡するばかりで、
もう出かけないと夜までに仙台に着けないって時間が迫り、
どうするんだ自分、
なにやってんだオレは、
行くんだ行くんだ、ウジウジしてるばあいとちゃうやんけ、
というとき、
函館もまた揺れに揺れたのだった。
もし、予定通りに出発していたら、ぼくはどうなっていたんだろう。
あれからもう5年。
忘れてません。
風化なんかしてません。
でも、
なんにも出来ない自分をどうかゆるしてください。
気にかけることしかできなくて、すいません。
もう15年くらいまえかなあ、
フライフイッシング・フェスタとかやってたころ、
その会場で、
さる著名な方に言われちゃったんだよ、大勢の公衆の面前で。
「ビゼンさんの記事はさあ、いつも楽しい楽しいばかりで、世の中楽しいばかりじゃないのにねえ」
その方がいきなり何故そんなことを言ったのか、その真意はわからない。
わからないけど、イヤなかんじだった。
でさあ、そのとき固く誓ったのは、
そんな言い方されるんやったら、逆にもうずーっとお気楽に、楽しくって楽しくってしかたありません、
って、その姿勢をつらぬきつづけたるわい。
あのなあ、アナタに言われるまでもなく、こちとら世の中の哀しみ不条理、もういやっちゅうほど身にしみてるのや。
それをひとときでも忘れて、
癒やしを求めてすがっているのがフライフイッシングやで。
健全な現実逃避やで。
そんな場で、なんでわざわざ現実を思い出すような話しせなアカンのや?
オレは野暮なことがキライなんじゃ。
と、
肩肘張ってまいりましたが、
あのとき、30代のボクにそんな辛辣を言ったあの方の年齢は、
ちょうど今のぼくの歳だった。
その歳になってみて、
なぜあのとき30代のぼくに、
当時50歳のあの方があんなことを言ったのか、わかる気がする。なんとなく。
なにかを書くことも、
なにかを話すことも、
苦労だと思ったことはなかった。
勝手に口が動いて、それをひたすら垂れ流していればよかった。
そんな感覚だった。
内容は棚上げして、まずは自分がたのしんでいた。
のに、
いつのころからか、
書くことも話すこともパワーがいるようになった。
ときとして苦痛だ。
でも書きたいし話したいんだよねえ、へんなの……。
大人になっちゃったんだねえ。
むかし、キダタローがテレビで言っていた。
「プロになる前は、私の才能は枯れることなく湧き出る泉だと信じて疑わなかった。
ですが、プロになると、その泉だとおもっていたものは泥水のたまったただの水溜まりだったと気がついた。
だから、その水溜まりから絞り出すように作曲するしかないんですよ。
だけど、そこからほんとうに道が切り開かれていくのだと、私は思います」
桂小枝ちゃんの話によると、キダタロー先生は、お休みのまえに「寝酒」ならぬ「寝パン」するんだって。
寝る前にパン召し上がるそうだ。
その情報、どうでもいい?
ぼくはクッソワロタ。
子供の頃から、キダタローてほんまに性格悪そうやなーと思いながら、
難しい話をなんてカンタンに、しかもオモシロく話しはるんやろかとおもって、
この人がテレビにでてると熱心に観た。
オレも性格の悪さでは負けてへんから、
センセのお言葉信じて、いまはもがいてあがくお年頃なんやとおもって、
ジタバタしようとおもいます。
ところで、
いつもこのブログは自宅パソコンで書くねんけど、
いまパソコン修理中。
なので、はじめてタブレットを駆使して、したためてみました。
モノグサの極み乙女としては大進歩なのです。
ちっともやろうとしないワタシを見捨てることなく、
忍耐強くケツをたたいてくれたサイトウさん、
ご指導ご協力くださったユリさん、
あらためて感謝です。今後ともよろしくね。
それから、
メールしたけど返事がなくて、
という方がおられましたらご心配おかけしてスイマセン。
パソコンがなおりしだい、返信しますので、いましばらくまっていてください。
いつもながらご迷惑おかけします。
そして、
フライ注文したけど、どうなってるのや、とご心配おかけしている皆様。
もうひたすらほんっとにお気を悪くさせて申し訳ありません。
お詫びの言葉もなく、とにかくがんばります。
なにとぞ、よろしくお願いいたします。